受験
今まで殆どの人に話したことのなかった受験の話を今更少しだけします。
自分語りなので不快な方はここでそっと閉じて下さい。
因みにこれから書くことは自虐風自慢でもなんでもありません。
一方で、今となってはもう昔のことなので、全く気にもしていないことです。
悲劇のヒロイン気取りでもないですし、「自分の人生、超辛いんだ!」自慢でもありません。
昔のこと、昔思ったこと、今思うことを、なんとなく書いているだけの文章です。
なのでもし不快になったらすぐに閉じて回れ右してくださいね。
僕が通っていた高校は、灘や筑駒のような進学校ではないですが、毎年東大に20人弱、国立医学部に50人くらいは受かる程度のところで、僕はその中であらゆる模試でほぼ常に学年一桁の順位でした。
しかし結局大学受験は悉く失敗し、比較的得意だったセンター試験すら9割程度しか取れず、一年浪人して地方の医学部に進学しました。
一方で、僕より順位の低かった人たちは何人も旧帝大の医学部や東大に合格していきました。
当時の僕は、正直、実力不足などとは言い切ることができず、何がダメだったのかなあ、とか、運が悪かったなあ、というように思い悩んでいました。
そして、どうしても、人は自分より苦労せずに結果を出してるように見えて、ことあるごとに悲しくなっていました。
しかし、実際はそうではなかった(確かにそういう部分もあったが、そればかりではなかった)のだと、今になってやっと思えるようになりました。
高校の頃に自分より一見成績が良くなかった人たちが受かったのは、順位などというその場その場のひとつの指標にしかならないただの数字に捉われず、目的意識を持って適切な努力を行った当然の結果だと思います。
一方で僕は、やっぱり何かしらまずいところがいろいろあったのかなとか思います。
そして、他の人と比較することなく、ひたすら内省と自己分析を繰り返すことこそ、本当にやるべきことなんだなと思ったりしています。
だけどこれは、自分がやってきたことを全て否定しているというわけでは決してありません。
当時の自分を完全な実力不足だったとも思わないし、ただ、「今考えると確かにやり方が良くなかった」というふうに思っています。
そして当時の努力から得られたものもたくさんあると思っています。
なので「結果が出ないのは完全な実力不足」とも思わないし、「結果の出ない努力は全て無駄」とも思いません。
そしてこれは、別に失敗の正当化でもありません。
結果論的な考え方なので、そういった批判もあるかもしれませんが、確かにそう思うのです。
ただ、これは今だからこう思えるのであって、当時の自分は、うまくいかないの意味わかんないなあ、としか思えなかったし、実際、努力が全然分からなくなってしまって、大学2年生の頃に留年までしています。
その上、普段ヘラヘラしているせいか元々あまり努力せずコスパの良い人生を送っているように見られがちな自分は、このように受験に失敗して流石に落ち込んでいた時でさえ「失敗しても医学部受かるなんて羨ましいなあ」などの声を散々浴びせられ、それならば落ちるところまで落ちた姿を見せてやろうと、留年して大学を辞めてやろうかとすら考えていました。
まあ、ここら辺の感情的な話はまた気が向いたら書くことにします。
そんなわけで結局何が言いたいかというと、人は、自分なりに頑張ったと思っても、本当はやり方が良くなかったりして、失敗することもあるし、ただ、結果が悪かったとしても、それまでの過程を全否定するのは良くない、確かにその過程は自分にとって価値のあるものである、ということです。
これはありきたりで当たり前なことだけど、皆意外とできていないことのように思います。
受験程度の失敗でここまでいろいろと語るのは、世の中のもっと大きな失敗体験のある人に失礼だと思われるかもしれませんが、少なくとも自分の中ではひとつの大きな失敗ではあったかなと思うのです。
まだまだここに書いていない受験の話もたくさんありますが、今日はほんの少しだけ、殆ど人に言ったことのなかった受験の話をしました。
おしまい